Director's Note

【ディレクターズノート】 酒井充子

2015年6月、高雄でレンタカーを借り、ぐるっと反時計回りに南から東海岸に出た。国道11号線沿いの「成功漁港」の看板に導かれ、小さな港町、台東縣成功鎮(鎮は日本の町に相当)にたどり着いた。漁港の市場で、日本語を話す元船長がいると聞き、その人に会いたいと思ったところからこの作品は始まった。 成功鎮は人口約1万5千人。台湾の南東部、太平洋と山脈に囲まれた自然豊かなところだ。もともとアミ族が暮らしていた地域で、現在は原住民族と漢民族系の人たちがほぼ半数ずつを占めている。1920(大正9)年、「マラウラウ(麻荖漏)」から「新港(しんこう)」に改称された。1932(昭和7)年に漁港が竣工して以降、日本人や漢民族系の人たちが移住し、漁業と農業の街が作られていった。日本人移民が持ち込んだ「カジキの突きん棒漁」がいまも続けられている。
台東縣は人口約22万5千人。タオ族、ブヌン族、ヤミ族など多様な民族が暮らしている。台湾全体でみると、現在、政府が正式に認定している原住民族(16部族)は約55万人で、台湾の全人口約2,350万人のうちわずか2.3%ほどだ。
台湾には太古から、原住民族が暮らしていた。17世紀以降、中国からの漢民族の移住が活発になり、為政者はオランダ、鄭成功親子三代、清、日本と移り変わった。1945年の日本敗戦後、中華民国の統治下に置かれた。中国国民党は49年から38年間、台湾に世界最長の戒厳令を敷いた。民主化が始まったのはいまからたった30年前、80年代後半になってからだった。
台湾の80歳代以上のお年寄り、つまり日本統治時代に青少年期を過ごした人たちは、戦前戦後の激動の時代を経験している。わたしは、日本に対する複雑な気持ちも混じった彼らの思いを「台湾人生」(2009年)、「台湾アイデンティティー」(13年)で伝えてきた。
どんなに時代が変わろうとも、台湾の人たちは台湾の海に、山に向き合い、汗を流して働いて生きてきた。だからこそ、いまの台湾がある。人々が紡いできた日々の暮らしこそが台湾にとってかけがえのない宝であり、台湾の原動力となっている。長年にわたる取材の中で、そんな至極当たり前のことに改めて気づかされた。前二作に続く台湾三部作最終章として、その当たり前のことを撮りたいと思った。
それを実現できると実感したのは、二度目の成功鎮訪問で張旺仔さんに会えたときだった。当時、御年84歳。突きん棒漁の優秀な船長だったという噂に説得力を与える分厚い胸板と笑顔が印象的だった。畑で黙々と体を動かす張さんの姿を見て、ここに台湾があると思った。張さんを撮れば台湾を撮れると思った。
張さんは最南端の恒春半島で生まれ、1941(昭和16)年、10歳のときに家族とともに新港にやってきた。漁師になったのは戦後になってからだが、子どものときからずっと海のそばで暮らし、海の恵みによって生かされてきた。1950年代前半の二年間、戦後も台湾に残った沖縄出身(張さんは台湾語で琉球人(りゅうきゅうらん)、日本語で沖縄人と言う)の船長のもとで働いた。当時、魚釣島(張さんは無人島と呼ぶ)周辺でも漁をしたそうだ。船長の地元、伊良部島の佐良浜で一泊したこともあったという。この話を聞く限り、当時の海上の往来はかなり自由だったことがわかる。とはいえ、台湾は戒厳令下にあり、出入港の時間は厳しく制限されていた。
張さんの後輩、アミ族のオヤウさんは、日本語を話す両親のもとで育った。オヤウさんが「父が嫁に来た」と話すのは、アミ族が母系社会で、伝統的に男性が女性の家に入ったからだ。オヤウさん、アコさんの父親たちもその伝統にならった。夫婦が暮らす家は、アコさんが母親から受け継いだ土地にある。そんなふたりは紙銭を焼き、足袋をはく。生活の中に中国、日本の痕跡がくっきりと刻まれている。作品の中で話される言語もそうだ。アミ語、ブヌン語、台湾語、日本語、北京語。台湾が歩んできた歴史が、彼らの言葉に現れる。
カジキは南からの黒潮に対して北から南に向かって波に乗る。船上では、波間に少しだけのぞく尾ひれを目視で探し出すという骨の折れる作業が間断なく続けられる。近年は延縄漁が主流となり、突きん棒漁は衰退の一途をたどっている。漁獲量は年々減少しており、後継者不足も深刻だ。張さんのふたりの息子とオヤウさんの長男は、いずれも漁業とは無関係の仕事に就いた。
カトゥさんのことを教えてくれたのは、台湾人の友人だった。ブヌン族の人が、村にいた中国人の退役軍人(老兵)のことを歌っていると。第二次世界大戦後、国共内戦に敗れた中国国民党は1949年、台湾への撤退を決めた。その際、台湾に渡った中国人兵士および民間人は200万人とも言われる。拉致同然で国民党軍に入れられ、そのまま台湾に連れてこられた人たちもいた。彼らは87年に戒厳令が解除されるまで、故郷に帰ることを許されなかった。一方、台湾から中国に送られた台湾人兵士たちがいた。アコさんの叔父は共産党に捕らえられたあと、身体能力を買われて陸上選手となり、中華人民共和国の代表として海外遠征などで活躍したという。海外で逃げるチャンスはなかったのか、との問いに、もちろんそうしたかったが常に監視がついていてかなわなかったと答えたそうだ。
わたしは、前二作で戦前の台湾人日本兵を取材する機会を得た。わたしたち日本人は、台湾がかつて日本統治下にあったという事実とともに、彼らのことを決して忘れてはならない。そこからさらに、戦後、中国に送られた台湾兵や、中国から台湾に渡った人たちがいたことを考えるとき、わたしたちはずっと俯瞰的に台湾を見つめることができると思う。
ブヌンの森で、カトゥさんの幼馴染のダフさんは、あっという間に一発も外すことなくキョン二頭を仕留めた。場合によっては、朝まで何も獲れないかもしれないと聞かされていたのに。なにかコツがあるのかと聞くと、「ゆうべいい夢を見たから」と言う。さらりとそんな言葉を返せる人たちだ。彼らは森に入るとき、必ず先祖に祈りをささげる。アミ族のオヤウさんたちも、漢民族風ではあるが海に出る前に紙銭を焼いたり、海に撒いたりして無事と豊漁を祈る。張さんは旧正月以外にも、旧暦の毎月1日と15日には妻と一緒に神棚にくだものを供え、神様と先祖に向かって家族の健康を祈っている。彼らの生活の中には常に「祈り」がある。そして、もうひとつ。彼らは魚も森の動物も丁寧にさばき、どこも無駄にしない。「命をいただく」ということの意味を知っている。わたしたち日本人が大切にしなくてはならないと気づき始めたものが、台湾にはある。
2016年4月、台湾人作家、陳芳明氏が来日した。マスコミ向けの座談会で、「台湾人とは」という会場からの問いかけに対し、陳氏は次のように答えた。「人生、労働力を台湾の地にささげた人々です」。夜空に飛んでいくランタンのあかりは、台湾に生きてきた人々、いまこの瞬間を台湾に生きているすべての人たちの命のともしびなのだ。台湾萬歳。